合図
きみがぼくに
合図する
まるで病気がないかのように
まるで死がないかのように
ふるまうことなんてできない
風景に溶け込ませるようにして
選んだ服の下で
苦悩に骨が輝いている
この輝きで
きみがぼくに
合図する
問い
瞬間ごとに問いかけられている
いつもまったく違う問われかたで
晴れ間がみえたかと思うと
瞬時に曇り
やがて雨がふりだす
この変化の激しい問いの過酷さに
建築家は設計図を描き
大工は屋根をつくるだろう
けれどもこの道は
有漏路から無漏路へ帰る道
「向こう側」からは
いつだって
家は泣かされ
設計図は問われ
屋根は問われ
そして体はまた
投げ出されたようにして
問われる
瞬間ごとに
いつもまったく違う問われかたで
蝶々
鳥が、飛び立つ
と、一行書くと、ぼくは落ち着く
ほら、と書いば
自分で、自分の肩に手をかけるよう
不調な日が続き
明日は良くなるにちがいないと
回復をじっと待つのだが
やがてその不調さが常態となってしまうような
そんな現実のつまらなさに味気なさに
打ちのめされそうになっているぼくに
最後まで寄り添ってやれるのは
ぼく自身だけなのだ
「過剰さ」は癒えない
だからぼくがぼくを見捨てることはできない
色のない失語の花に
とまる
ちょうちょう
この蝶々が塀を越えていくことを夢想して
ぼくはまだ何かを書こうとしている
もうだめだ
もうだめだ、と言えば
顔をしかめられる
もうだめだ、と言えば
励まされる
もうだめだ、と言えば
分析される
もうだめだ、と言えば
薬を飲まそうとする
もうだめだ、と言えば
治そうとする、正そうとする
だれも
素直に聞けない
もうだめだ、という言葉を
ぼくだって
そりゃそうだけど
否定的な感情や物事に対する
積極的な対処法をぼくは知らない
ぼくには
ただそれらに対する憐れみがあるだけだ
それらに対する
積極的な対処法を示す多くの言葉に
ぼくがいつも思うのは
そりゃそうだけど、ってことだ
そりゃそうだけど、って事を超えて
示される方法は未だに聞いたことが無い
そしてこれからもたぶん聞くことはないだろう
もしあれば、それこそ教えて欲しい
想像力
想像力は万能じゃないけど
やまいの過剰さに対する
第一級の武器だとも思う
たとえ病気が治らなくても
もしも病気じゃなかったら、と考えることができる
ここに寛容があるような気がするんだ
しかも自分の欲望を力に変えられる
仏教などの「無」とはことなる寛容が
でも当たり前だけど想像力は万能じゃない
だって想像力なんて想像できる状態、状況の時にしか働かないんだから
自然の過剰さの中で
サイコロのように転がって生きるほかないのに
自分の内側の世界なんてどれだけ脆弱なものか分かっている
でも現実は苦しいじゃないか...
苦しいだろ?
ぼくは苦しい
だからぼくは想像力を少しでも働かせられるように努めたい
そして想像力が現実に働きかけるあらゆる力にくらべて
切実じゃないなんて
けして思わない
まして無力なものだとも思わない
ああすればいいとか、こうすればいいとか
ああすればいいとか
こうすればいいとか
なんでうそをつくんだろう
ぼくは「瞬間の絶対性」からは逃れられないと思っている
この瞬間、次の瞬間に
ぼくが何をしでかすか分からない
ぼくの隣にいる人が何をしでかすか分からない
そのような「瞬間の絶対性」には認識は遠く及ばない
社会や心や脳や体のしくみがいくら解明されても
ぼくが生きなければならないのは
自然の過剰、身体の過剰、関係の過剰が電光石火で衝突する
この「瞬間の絶対性」のうえでだ
ああすればいいとか
こうすればいいとか
なんでうそをつくんだろう